甘いの 

 太陽が傾きかけたばかりの、放課後になってすぐのことだった。
「何読んでんだ?」
 なんとなく目に付いたから。特に大それた理由もなく、おれは机に向かって本を読んでいたそいつに話し掛けた。
 教室の窓際の席に位置するそいつ――厳つい顔した熊の彼は、無遠慮に覗き込もうとするおれにワンテンポ遅れて気が付くと、さっと逃げるように本を遠ざけてしまった。
「お、お前なぁ。覗き込むなんて悪趣味だぞ」
「そうかぁ? 覗き込まれて困るようなの読んでるヤツが悪いだろ」
「……んとに、お前はデリカシーがねぇ」
「柔道部主将がデリカシーとか気にしてんなよ」
 頬を赤らめ顔を背ける熊に、乙女か! とツッコミそうになるのをぐっとこらえながら、それよりも気になるのは本の中身だと改めて聞き直す。
「隠されると余計気になんじゃん」
「言わねぇよ」
「言えねえの? もしかして、学校でエロいの読んでんのか」
「読んでねぇ」
「みんなー! こいつがエロ……ぉぶ」
「わかった、言うから! 変なこと言い触らすのやめろ!」

 熊に口を塞がれながら、したり顔で言葉を待つ。熊ときたら、言うと言ったくせにパクパク口を開閉しては結局言葉を飲み込んでしまい、また開いたかと思えば、やっぱりやめてしまって。
「そんな恥ずかしがらなくても、エロいの読んでんならそれで」
「エロくはねえよ! ねぇけど、あぁもう!」
 ばっ、とヤケクソのようにページを開かれても、文字の羅列を理解するのにいくらかかかってしまった。
 熊がモジモジと気まずそうに下のマズルを噛んでいるのを横目に読み進めると、なにやら少女が部活のイケメンの先輩に告白するシーンのようで。
「……これ」
「そうだよ、女が見るようなもん読んでたんだよ」
 不貞腐れながら、何とでも言え、なんて態度を取る熊。まさか、ホントに乙女だとは思わなかった。
「そんなビビらなくてもさ、おれだって読んだことあるぜ、こういうの」
「……そういって油断させる気か」
「警戒しすぎ。うち、姉ちゃんがいるからさ。家にこういう小説いっぱいあって、あると読んじゃうんだよな」
 ここまで言ってもまだ疑いの目を向けてくる熊だったが、おれの表情にからかいも侮蔑もないのを見ると、みるみる目を輝かせていく。

「な、ならさ。これ読んでみてくれよ」
「えっ、読みかけじゃねえの」
「もう5回は読んだから。池面先輩に告白したくてできねぇ女にすげぇ共感しちまってさ、もう何回読んでも胸が切なくなっちまって」
 実際嬉しそうに語る熊は、それこそ夢見る乙女のようなキラキラした目でいかにその恋愛小説が素晴らしいかを語り始めて。教室に何人か残っていて誰かに聞かれるかもしれないという状況を、熊はわかっているのだろうか。
 わかっていなかったのだろう、ハッとした彼は、口を開けたまま数秒固まると、すぐに本へ顔を突っ込んで呻き声を上げ始めた。
「ま、まあさ。お前ほどじゃないけど、おれも恋愛小説は良いと思うぜ」
「違うんだよぉ……」
 フォローを入れるのだが、熊はすっかり恥ずかしがってしまって、とりつく島もない。こりゃ、悪いことしてしまったな。
 今日のところはそっとしておいてやるか、と離れかけたときに、熊の不安そうな目がそろりとおれに向けられる。
「やっぱ、おかしいよな。特に俺なんて、こんな芋臭い顔して、柔道やってるようなヤツなのに、こんな軟派なものに興味津々だなんて……」

フォロー

 ぼそぼそと、耳をすまさないと聞こえないような低い声で呟く熊は、はっきり言うと見ていられなくて。おれの思うままを、熊へと口走らせていた。
「わかんねえけど、可愛いんじゃねえの」
「なっ」
  バタバタ丸耳をはためかせては真っ赤になる熊に、おれも自分の言ったことに気付いて顔が熱くなっていく。恋愛小説読んでるこいつに、可愛いって。
「お、お前なぁ、池面先輩とおんなじこと言うなよ! 惚れちまうだろ!」
「お前も何言ってんだよ!」
 咄嗟に出た感想が可愛いだなんて。男に惚れられてそんなに気が悪くない自分がいるなんて。
「お、おれ! 先武道場行ってるからな! お前もすぐに部活来いよ!」
 逃げるように荷物をひっつかむと、足早に教室を出ていく。段々とたまらなくなってきて、廊下を走って。そんなおれの頭の中に浮かぶのは、恋愛小説の良さを語る乙女のような熊の笑顔だった。

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